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東京高等裁判所 昭和52年(う)787号 判決

被告人 永井清延

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人今長高雄が差し出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書に、それぞれ記載してあるとおりであるから、これらを引用し、これに対して当裁判所は、次のように判断する。

所論は、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認及び法令の解釈、適用の誤りがあるから、本件ガス風呂浴室内における吉田アサ子の一酸化炭素中毒死事故につき被告人に対し重過失致死罪の成立を認めた原判決は破棄を免れず、被告人は右について無罪であると主張し、その理由を次のとおり縷説するので、その各個につき判断を加えることとする。

第一点 被告人には注意義務がないとの主張について

所論は、原判決は、被告人において本件木造モルタル塗り二階建共同住宅(建坪約三三坪)一棟を建築し、その敷地と共に田中ひさ子に売り渡すにあたり、都市ガス用風呂釜による浴槽を設置した本件浴室が「建物(階下)の中央に位置していたので、何らの換気設備も設けない場合には、居住者が同風呂釜の都市ガスに点火して浴室扉を閉ざして風呂を沸かすことにより、浴室内に燃焼に必要な空気量が不足し、不完全燃焼によつて発生する一酸化炭素が同室内に充満し、入浴者が一酸化炭素による中毒に陥る危険な状態であつた……ことを知悉していたのであるから、……浴室に十分な換気設備を設けて入浴者の一酸化炭素による中毒に陥る危険を防止すべき注意義務があると認定しているが、被告人は本件建物の売主に過ぎず、したがつてその建築を請負い、工事を施工しあるいは本件浴室に都市ガス用風呂釜を取り付ける等の工事に従事したものではなく、また換気設備の技術的規準等に関し専門的、技術的知識を有していたものではないから、本件建物を田中に引き渡した昭和四八年一月当時、被告人において本件浴室が原判示のような危険性を有することを予見することはできなかつたのであり、仮に当時右のような危険性について予見可能性があつたとしても、本件入浴者の一酸化炭素中毒死事故について本件建物の建築請負人並木秀尾、風呂釜取付工事人水島達夫らの業者に業務上過失致死罪の責件を問うのは格別被告人のような素人に対し専門的、技術的な重い注意義務を要求するのは誤つているというのである。

そこでまず、被告人が、本件浴室において入浴者が一酸化炭素中毒に陥る危険性を予見することができたかどうかを検討するに、司法警察員作成の実況見分調書(二通)によれば、本件浴室は、その面積約一・八六平方メートル、高さ約二・四ないし二・七メートルで、本件建物の階下中央に位置し、四囲を各室に取り囲まれて直接屋外に面した箇所がないうえ、内部に設置された都市ガス用風呂釜(外釜式)の煙突(高さ約五五センチメートル)は室内に開口し、しかも浴室の壁面、天井及び出入口(木製扉)のいずれにも換気扇、換気孔などの換気装置が全くないため、出入口の扉を閉じると完全に密室状態となり、かかる状態のもとに風呂を沸かせば都市ガスの燃焼によつて発生する二酸化炭素及び不完全燃焼によつて生ずる一酸化炭素等のガスが浴室内に充満することはたやすく推認されるところ、入浴者が出入口の扉を閉ざして風呂を沸かしながら入浴することは通常あり得ることであつて、そのような場合、入浴者が一酸化炭素等のガスにより中毒症状をおこし、場合によつては死に至る危険性があることは十分考えられるところである。そして本件浴室が持つ右のような危険性は、建築設備に関して専門的、技術的知識を持たなくても、また本件と同種の事故の新聞報道等を待つまでもなく、一般人において日常の生活体験に照らし、あるいは都市ガス燃焼に関する極く初歩的な知識によっても当然気付くべき事柄に属しているものと認められる。ことに、原判決挙示の関係証拠によれば、被告人は、本件建物の引渡し前に買主の田中から本件浴室に換気装置を設けるよう要求を受けていたのであつて、右引渡し当日には本件建物全部を実際に見分したのであるから、右浴室には何らの換気装置も設けられていないことを認識していたものと認められ、さらに被告人自身も原審公判廷において、検察官の「密閉した部屋の中でガスをたくとどういうことになるのか。」との質問に対し「常識としては分ります。」と答えていることなどを総合すると、被告人は、本件浴室について前記のような危険性があることを容易に認識し得べき状況にあつたと認められる。

次に被告人に原判示のような注意義務があるか否かについて検討するに、被告人は不動産仲介業者であって、建築設備の安全性等について専門的知識は持ち合わせていなかつたとはいえ、一般の人よりは建物の構造及び施設等に通じていた筈であり、原判決挙示の関係証拠を総合すると、原判決が(重大な過失を認定した理由)の項において詳述しているとおり、被告人は昭和四七年九月一五日自己所有の宅地(約二七坪)に田中の希望する賃貸用アパートを建築して同人にこれを売り渡す契約をした者として、住居として安全な建物を引き渡すべき義務を負担していたものであるが、とりわけ本件建物の建築については田中から任かされて浴室を建物階下中央に配置することとして自ら本件建物内部の見取図を作成し、建築士の資格のない請負業者の並木に対し、二級建築士佐山政昭に作成させ建築確認を得た設計図とは全く異なる右見取図に基づいて本件建物を建築するよう指示し、翌四八年一月一九日ころ並木から浴室に何らの換気装置も取り付けられていない構造の本件建物の引渡しを受けた(工事完了検査は受けていない。所論は同月一三日検査済証の下付があつたというが、中野区長作成の「捜査関係事項の回答」と題する書面によればその事実は認められない。)ことが認められるから、被告人は単なる住宅の売主とは異なり、それ以上に本件建物及びその付属設備の安全性について、引渡し前に格別に注意を払うべき立場にあつたというべきであり、本件建物を買主の田中に引き渡すにあたっては、入浴者が一酸化炭素中毒に陥る危険を防止すべき義務があつたというべきであつて、原判決が被告人に原判示のような注意義務があると認定したのはその結論において正当である。所論は理由がない。

第二点 被告人に注意義務の懈怠がないとの主張について

所論は、原判決は、被告人において本件浴室に十分な換気設備を設けて入浴者の一酸化炭素による中毒に陥る危険を防止すべき注意義務があるのにこれを怠り、昭和四八年一月一九日ころ並木から浴室に換気装置が取り付けられていない構造のまま引渡しを受けながら漫然これを田中に引き渡した重大な過失があると判示し、更に、「被告人にとつては、僅かの注意を払えば、……本件の結果を回避する措置は容易に講ずることができたと推認することができ、また、通常人であれば、かかる危険性の高い建物を売却引渡す行為に出ないであろうと期待できるから結局、被告人の判示所為は重大な過失と認めるのが相当である。」と説示しているが、本件建物の実質上の注文主である田中は本件建物の引渡し前及び引渡し当日、建築請負人である並木に対し換気孔又は換気扇をつけるよう要望したのに対し、並木は要望どおりにする旨返答したのであり、また被告人からも並木に対し引渡し当日右取付方を依頼し、同人において引き続き不十分な箇所を修理することで関係者全員納得のうえ本件建物の引渡しを終えたのであつて、被告人としては並木が直ちにその措置をとるものと考え、同人を信頼していたのであるから、被告人において前記注意義務を怠つた事実はないと主張するものである。

しかしながら、被告人の原審公判廷における供述及び検察官に対する供述調書その他の関係証拠によれば、被告人は本件浴室の構造に不安をいだいていた田中から昭和四七年末ころ換気設備を設置するように要求されたのに、並木に対しこれを伝達したにとどまり、換気装置の取付け工事が完成したか否かを確認しないまま放置し、かつ本件浴室内に換気装置が取り付けられていないことを熟知しながらそのままの状態で本件建物を田中に引き渡している事実を認めることができるのであつて、前記のように本件浴室の使用等によって生ずることのあり得る重大な結果を防止すべき注意義務を負つていた被告人としては、引渡し当日並木に対し即座に十分な換気装置を取り付けるよう命じ、これを実行させた後本件建物を引き渡すべきであつたのであり、しかも右の措置を講ずることはきわめて容易であつたと認められる本件につき、原判決が被告人に対し前記注意義務の懈怠を認めて重大な過失を認定したのは相当というべきである。論旨は理由がない。

第三点 因果関係がないとの主張について

所論は、仮に被告人に原判示のような注意義務違反があつたとしても、被告人が昭和四八年一月一九日ころ田中に本件建物を引き渡してから、被害者吉田アサ子が昭和四九年四月一六日本件浴室において一酸化炭素中毒により死亡するまで、長期間が経過しているうえ、その過程において請負人並木の行為、東京都建築主事の建築確認許可、建築監視員の工事中の監視、指導、検査員の工事完了検査等の行為、並木の依頼による水島タイル係員によるガス風呂釜の取付け行為、東京ガス会社係員によるガス配管工事、ガス設備の最終検査等の行為、更に田中が昭和四九年一月一四日吉田アサ子に本件建物階下二号室を賃貸した行為等が介在しているのであるから、被告人の注意義務違反と本件結果の発生との間には因果関係が存在しないというのである。

しかしながら、水島達夫、関根一夫の司法警察員に対する各供述調書によれば、水島タイルのガス風呂取付け工事及び信和商工(東京ガスの下請)のガス配管工事等の日時は、被告人が本件建物を田中に引き渡した時期よりも前であつたと認められるし、東京都の建築監視員が本件建物の工事中に監視に来たか否かについては、被告人の原審公判廷における供述で若干触れてはいるが真偽のほどは明らかでなく、なお前記のとおり本件建物が建築主事等による工事完了検査を受けた事実を認めることはできない。もつとも本件は、被告人の原判示の所為のほか、請負人の並木が浴室に何らの換気設備も設けないで本件建物を被告人に引き渡した業務上の過失(並木に対する業務上過失致死事件は略式命令により確定)と、買主の田中が本件建物(二号室)をその浴室に何らの換気設備を設けないまま単に換気設備がないので注意してほしい旨を告げただけで吉田アサ子に賃貸して右浴室を使用させた過失が競合し、更に被害者である入浴者の不注意が加わつて発生したと認められる事案であつて、被告人の原判示の過失の前後に請負人並木と賃貸人田中の前記過失が存在したからといつて、被告人の原判示所為と被害者の死亡との間の因果関係が否定されるものではない。論旨は理由がない。

第四点 被告人は構成要件該当行為に関与していないとの主張について

所論は、本件事故は田中が吉田アサ子に換気装置のない浴室付の本件建物を賃貸したという過失によつて発生したものであり、右の賃貸に関与した者は仲介業者の小林重三と田中であつて、被告人はこれに何ら関与していないから、被告人は右過失の構成要件該当行為に関与していないというのであるが、被告人は右賃貸行為に関与していないとはいえ、本件は、被告人の原判示過失と、前記他人の過失との競合によつて発生したものと認むべきであるから、被告人は、責任の多寡は別として、本件につきその刑責を免れ得るものではない。論旨は理由がない。

その他各所論にかんがみ、原審記録を再調してみても、原判決が被告人につき本件重過失致死罪の成立を認めたことにつき事実誤認及び法令の解釈、適用に誤りがあるとは考えられない。以上の次第で、各論旨はすべて採用するに由ないものである。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 服部一雄 藤井一雄 中川隆司)

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